「首都高速道路と日本橋の景観をめぐる言説史」をたどりつつ「景観への感性」を考える 【その2 後編】

都市計画

変容する「景観への感性」の中で我々は何を考えるべきか

 「首都高速道路と日本橋の景観をめぐる言説史」をたどりつつ「景観への感性」を考える 【その1 前編】では、日本橋と首都高速道路をとりまく景観論争、そして首都高地下化事業についてのお話をしました。
  景観の善悪を判断しているのは、そのときの(ある意味では一時的な)「時代における景観の感性」であって、「今後ともその感性が妥当であるという保証は全くない」ものだということを、この事例に限らず、我々は常に心に留めておく必要があります。
   この点については、「土木学会誌 Vol.101 No.10」(2016年10月)に、渡辺裕 東京大学大学院人文社会系研究科教授 が寄稿された、「変容する感性のなかで ~首都高速道路の景観をめぐる言説史~」の論述が素晴らしく、私はとても感銘を受けました。
 4ページほどの寄稿文なのですが、とても考えさせられる内容でした。

日本橋の首都高は景観破壊か?

 筆者はまず、「日本橋の首都高は景観破壊か?」という点から論を始めています。

 日本橋の上に架かっている首都高速道路(以下、首都高と略す)と言えば、景観の話と相場が決まっている。
 そして、1964年のオリンピック大会に向けて短期間の建設を余儀なくされたために、なりふり構わす川の上に首都高をつくってしまい、日本橋本来の景観がだいなしにされてしまったというストーリーが、嘆きや怒りとともに語られ、多くの人がそれを受け入れているのではないだろうか。

 しかし首都高だけがひどく悪者にされているこのストーリーはどこか奇妙である。……(中略)……「続・三丁目の夕日」(2007年)では、「高速以前」の日本橋が古き良き時代の象徴のような形で描かれ、そこに高速道路が通るという話を聞いた薬師丸ひろ子演じるトモ工という女性が、失われる懐かしい景色を惜しむかのように「どんどん変わっていくのねえ」と述懐するシーンが出てくるのだが、正編で登場した東京タワーが、貧しいながら未来志向でひたむきに生きている人びとの元気の源としてポジテイプに位置付けられていたのとは対照的な扱いである。……(以下略)

変容する感性のなかで ~首都高速道路の景観をめぐる言説史~

 

「未来都市」の新しい美

 続いて筆者は、首都高建設当時の賞賛について述べています。
 【その1 前編】で私がふれた、SF映画「惑星ソラリス」の印象的なシーンもその延長上にあるといえるでしょう。

 実際、首都高がつくられた時期の出版物からは、この景観にまったく違った評価がなされていた様子が伝わってくる。
 1964年のオリンピック大会記念に読売新聞社が出した「美と力」という写真集には冒頭に「開催都市トウキョウ」という一章があるが、その主役は首都高である(写真1)。「ハイウェーの上をさらにハイウェーが走り、縦横無尽に立体交差して、不思議なパターンをえがき出す」(汐留インターチェンジ)、「皇居をめぐるお堀の青い水の上を、銀色に光る高速道路が”ニジのかけ橋”のように横切る。数あるハイウェーのなかでも、最も美しい場所の一つである」(千鳥ケ淵水上公園)などという言葉が躍り、「科学と技術に裏づけられた、すばらしい都市の近代化・立体化」が「日本民族のもたらした、金メダル的成果」として絶讃されている。

 キーワードは「立体化」である。……(中略)……日本橋の情緒が失われてゆくことを嘆く論説もあったが、時代の空気は「立体化」による未来都市の実現に傾いており、その立体的な造型や描き出される抽象的なパターンの美しさが絶讚されていた。オリンピックや経済のために美的感覚を犠牲にしたわけではなく、景観に対する感性のあり方自体が今とは違っていたのである。

変容する感性のなかで ~首都高速道路の景観をめぐる言説史~

  【その1 前編】でご紹介した「首都高物語―都市の道路に夢を託した技術者たち」(2013)にも皇居周辺では景観との調和に苦心した話がでてきますが、日本橋付近についての話は「江戸橋ジャンクションの設計において日本橋川の橋脚を少しでも少なくしたことの技術的難しさ」であって、日本橋との景観的調和に苦心した話はありません。
 
  「変容する感性のなかで 」で筆者は、その後、首都高が「戦犯」となっていく経緯を述べています。

失われた「原風景」としての川

 首都高批判が前景に出てくるのは1970年代以降のことである。公害問題や都市間題の深刻化と相まって、かって東京は多くの川が織りなす「水の都」であったこと、戦後の急速な都市化の中で川が埋め立てられるなどしてそのような環境か失われてしまったことを主張する陣内秀信のような論客があらわれ(「東京の空間人類学」、1985年)、首都高は一転して、こうした東京本来の環境をぶち壊した「戦犯」として糾弾される立場となった。

 この1970年代以降の時期はそれ以上に、人びとの感性のあり方全体が大きく変わった時期でもあった。……(中略)…… 東京でもまた、失われつつある過去へのまなざしが前景化し、下町情緒や江戸の町割りの痕跡といったものへの関心が広がった。日本橋はそのようなまなざしを受けとめる象徴的な存在となり、そこに架かる首都高の建設は、そういう古き良き情緒をぶち壊した「蛮行」として際立たせられることとなったのである。

 とはいえ、そこでの日本の「原風景」は、イメージ先行で実体を欠いていた。……(中略)…… その意味では、人びとが思い描いた「首都高のない日本橋」もまた、現実味を欠いた空虚なイメージだった。
 もちろん、首都高に覆われた日本橋の景観を醜悪と感じる美的感覚自体はありえようが、未来都市のような首都高イメージをよしとした美的感覚がその時代の空気の産物だったように、こちらもまた、「原風景」を求める過去志向的な空気の産物にほかならなかった。

変容する感性のなかで ~首都高速道路の景観をめぐる言説史~
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首都高速道路日本橋区間地下化事業
https://www.shutoko.jp/ss/nihonbashi-tikaka/

 筆者は、さらにその後の「新しい感性」の萌芽を指摘しています。

川から見上げる首都高と新しい感性

 その首都高周辺では今まさに、それを覆すかのような新たな美的感覚が誕生しつつある。
 象徴的なのが、川の水面からまちを眺める活動の急速な広がりだ。……(中略)…… 今ではさまざまなクルーズ船が運行されるようになり、日本橋にも着船場が設けられた。

 「水の都・東京」の歴史的景観を求める動きの続きかと思いきや、首都高の撤去を理想としている気配はさらさらない水面に視点をとることで、高速道路の裏側に露出している構造やジャンクションの複雑な造形などを味わい、上にかぶさる高速道路のつくり出した光景に美を見出す。……(中略)……

 水上から見る首都高の「真上には高架橋、左右にはピルが立ち並んでいて、間に見える空から光が差し込んでくる」ような景色は、「東京を一番底から見ているような感じで、とても面白い」と大山顕は言い、川の上に道路を造ったことが悪いように言われるが、そういう人は本当にこういう景色をみているのだろうか、「月の上は空が開けているべきだ」というのも固定観念にすぎないのではないか、と問う。……(中略)……

 都市に対するこうした新しい視点は、最近のテレビ番組『ブラタモリ』の人気などとも通じ合っているであろうことは、同じタモリの番組である『タモリ倶楽部』にしばしば水路や首都高に関連した「水道橋分水路を行く」、「首都高作りかけ大賞」などのネタが登場してくることからも裏書きされる。
 「未来都市」とも「日本の原風景」とも違った首都高や日本橋の新たなイメージがつくられてきているのである。

変容する感性のなかで ~首都高速道路の景観をめぐる言説史~

 最後に筆者は、自分自身の感性や価値観を当然のものと考えることの危険性を指摘するとともに、一歩距離をとることでその成り立ちを見極めることの重要性を指摘しています。

存続か撤去かというニ分法を越えて

 日本橋や首都高をこうした新しい感性でとらえているのは、生まれた時から日本橋には首都高が架かっていた世代の人びとである。彼らにはそもそも首都高なしの日本橋のイメージなどというものは無理矢理にしか描きようがないのではないだろうか。
 たしかに、2階建しか知らなかった東京駅のれんが駅舎が3階建の「本来」の姿に「復元」されたときに筆者が感じた奇妙な当惑を思い起こすと、彼らの感性はよく理解できる。
……(中略)……

 首都高のケースは、存続か撤去かというセンセーショナルな二分法に幻惑されて、白黒はっきりした形でとらえることになりがちだが、実際には多様な背景、思想をもったいろいろな人びとがコミュニティを形づくっているわけであり、その茫漠とした広がりの中でさまざまな人びとがさまざまに形を変えながら関わり合う中から生み出されてくるものこそがまさに文化なのである。
……(中略)……
 そして実際、存続か撤去かという狭隘な二分法を越えたさまざまな広がりの可能性が今、生まれつつあるのではないだろうか。

 そして、そういうさまざまな広がりを受けとめる度量をもっているものこそが文化財と呼ばれるにふさわしい存在であるということは、今に残るいくつもの土木遺産や建築遺産が教えてくれているところでもある。

 自分自身の感性や価値観を当然のものと考えて出発してしまう前に、それ自体がまさに歴史的に形づくられたものにすぎないことを認識し、一歩距離をとることでその成り立ちを見極めることができれば、見慣れた目の前の景色にもまったく違った多様な見え方の可能性が開けてくるかもしれない。

 もっとも、これは何も土木や建築だけの話ではなく、物書きとしていやしくも「文化」のはしくれを担っているほかならぬ私自身にもかえってくる話である。
 今自分が書いているこの文章を、50年、100年先の人びとがどのように読んでくれるかなどということがわかれば、誰も苦労はしないのだが。

変容する感性のなかで ~首都高速道路の景観をめぐる言説史~

最後に ~「景観への感性」を超えて~

 感銘を受けた寄稿文でしたので、引用が長くなってしまいましたが、読者の皆様にとっても首肯できる内容なのではないでしょうか?

 日本橋上空も含めて、首都高速道路の構造物の老朽化が進み、大規模改修などが避けられない中で、やっと首都高速道路中央環状線が完成し、廃止・地下化・ 改修などをそれぞれの区間で選択する時期に来ています。

 私は、30年ほどにわたり鉄道計画・建設や都市計画、高速道路建設などに携わっていたためか、「50年、100年先の人びと」への責任を強く感じてきました。
 いわゆる「地図に残る仕事」では、機能的・構造的さらに景観的など様々な要素を考慮し、将来の人々への責任を果たさなければならないと思っています。

 ただし、景観については現代人でも評価が分かれやすく、まして将来の人々がどのような感性を持っているのかは知る由もありません。
 「だから『景観』は難しい!」と愚痴のひとつも言いたくなります。
 「『景観への感性』を超える」ことは可能なのでしょうか?
 「できる」「できない」それぞれの意見の方がいらっしゃるでしょう。

 
 繰り返しますが、景観の善悪を判断しているのは、そのときの(ある意味では一時的な)「時代における景観の感性」であって、「今後ともその感性が妥当であるという保証は全くない」ものだということを、我々は常に考えておく必要があります。
 そして景観だけではなく、すべての価値観が「時代における感性」の影響下にあるといえるでしょう。
 計画から完成までのスパンが長い 「地図に残る仕事」 をする場合には、 「時代における感性」 に影響されない強靭さが必要なのかもしれません。
 そして、長い期間を経て結果として残った「土木遺産や建築遺産」は、災害や戦災を乗り越えたことと同様に 「変容する景観への感性」をも乗り越えた遺産なのだ、と言えるのかもしれません。

追記:「感性文化論」<終わり>と<はじまり>の戦後昭和史

 「変容する感性のなかで ~首都高速道路の景観をめぐる言説史~」は 2016年の土木学会誌(Vol.101 No.10 October 2016)への寄稿文であるため、皆さんが手に入れて読むことは難しいと思われます。
 このため、ぜひ読んでみたいと思われる方は、下記の著書「感性文化論」をお薦めします。
 当記事でご紹介した内容を 「第4章 日本橋と高速道路 ~ 都市景観をめぐる言説史にみる感性」において約60ページにわたり論じています。

感性文化論

「感性文化論」〈終わり〉と〈はじまり〉の戦後昭和史
(渡辺裕 著 2017年 春秋社)

【 目 次 】
序 章 いま「戦後」の文化を考えるということ
第Ⅰ部 一九六四年東京オリンピックのメディア考古学

 第1章 「実況中継」の精神史
    ~「耳で聴くオリンピック」の背景文化
 第2章 「テレビ的感性」前夜の記録映画
    ~公式記録映画《東京オリンピック》は何を「記録」したか
第Ⅱ部 環境をめぐる心性・感性と価値観の変貌
 第3章 新宿西口広場「フォークゲリラ」の音の空間

    ~新しい感性の媒介者としての『朝日ソノラマ』
 第4章 日本橋と高速道路
    ~ 都市景観をめぐる言説史にみる感性の変容の軌跡

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