「首都高速道路と日本橋の景観をめぐる言説史」をたどりつつ「景観への感性」を考える 【その1 前編】

都市計画

「ファイバーシティ: 縮小の時代の都市像」における「日本橋と首都高速道路」

 先日の記事「『ファイバーシティ』が頭から離れない ~都市の線状要素、そして縮小の時代のメガロポリス像を考える~」では、「日本橋と首都高速道路」についての大野秀敏氏の(当時の)見解をご紹介しました。

「ファイバーシティ: 縮小の時代の都市像」(著:大野 秀敏・MPF:2016年)に関連して、「首都高速道路のうち日本橋付近(日本橋区間)は景観についての議論を経て、日本橋付近の首都高高架橋が撤去(地下化)されることになりましたが、著者は安易な撤去論に組みしない立場とのことです。
(景観などについては後日、別途記事をまとめたいと思っています。)

https://toshi-tantei.com/book-3/

 今回は「首都高速道路と日本橋の景観をめぐる言説史」を考えてみたいと思います。
 なお、都心環状線のうち日本橋の上部に架かっている区間(日本橋区間)については、特に2000年代に入ってから景観上の議論や沿道開発の具体化を経て、現在では「高架部分を撤去し、立体道路制度を活用して地下化」することが決まっています。

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首都高速道路日本橋区間地下化事業
https://www.shutoko.jp/ss/nihonbashi-tikaka/


首都高速道路日本橋区間地下化事業
サイト(https://www.shutoko.jp/ss/nihonbashi-tikaka/)

 「ファイバーシティ: 縮小の時代の都市像」が書かれた当時(2016年)は、各方面の専門家や地域住民・法人を巻き込んでの議論が展開されていました。
 ただし筆者は安易な撤去論を戒める議論を展開しており、以下のように述べています。

 まず、日本橋と上を跨ぐ首都高速道路である。
 これは景観的に不人気である。首都高を撤去すべきだと主張する人は、日本の都市景観が惨憺たるのは日本人が歴史を大事にしないからだと難じる。
 しかし、歴史を振り返ればわかるとおり、日本橋ができた明治44年ころは、周辺は川越に残るような重厚な関東町家並ぶなかにところどころ西欧様式建築が交じる街並だったのだから、この日本橋自体が景観破壊の張本人であった。
 それに、祖父の時代の仕事を残せと主張するのであるなら、現在からみた父の時代の仕事を残しておくべきであろう。
 今の父の時代の仕事は次の世代からみれば祖父の仕事だからである。首都高は、完成した当時は優れた土木技術と未来的な景観で絶賛を博した父の時代の立派な仕事であった。

(出典:「ファイバーシティ: 縮小の時代の都市像」P52)

 この手の景観の話になると、建築家と私のような土木屋(なぜか「土木家」なる言葉は無いんですよね:笑)では見解が異なることが良くあるのですけれど、今回ばかりは全く異論が無く「よくぞ言ってくれました!」というところです。

東京高速道路(KK線)上部空間の再生・活用と 「緑の網」

 前回の「『ファイバーシティ』が頭から離れない」では、私は以下のように紹介しました。

 「緑の指」では鉄道路線(駅周辺)への居住集中とそれ以外の緑地化、「緑の間仕切り」では防災緑地帯、「緑の網」では首都高速道路の廃止と緑地化が示されていました。
 「ファイバーシティ/東京2050」が公刊された2006年段階では首都高速道路中央環状線の新宿線、品川線が建設中であり、その完成後に首都高速道路1号線などについて高架構造物を(ニューヨークの)ハイラインのように緑地化する(一部は緊急車両レーンや自転車レーンとする)ことを想定していたようです。

https://toshi-tantei.com/book-3/

 少し寄り道になりますが、日本橋付近の話の前に、「緑の網」(首都高速道路の廃止と公園・緑地化)に関する話題を述べておきます。
 今年(2021年)2月に、東京都から「東京高速道路(KK線)再生方針 」が示されました。

 「KK線」とは「株式(K)会社(K)線」に由来するとのことで、1951年に設立された「東京高速道路株式会社(KK線)」が「戦後の銀座復興と渋滞緩和のため、銀座周辺の外堀、汐留川、京橋川を埋め立てて高速道路を建設」(1953年着工)した自動車専用道路です。1959年に一部供用、1963年に首都高速道路と接続し、1965年に全線供用しています。
 (路線上は一体化されているので、首都高速道路の一部と思われている方も多いようです。)
 銀座、例えば有楽町駅前などで、低層の商業施設の上部が自動車専用道路になっていますが、あれが KK線です。(下図は国土交通省資料より)

 「東京高速道路(KK線)再生方針 」では以下のように再生・活用を目指しています。
 ハイラインは鉄道廃線跡でしたが、KK線は自動車専用道路(片側2車線)跡で、両方向合わせるとハイラインの2倍程度の幅員がありそうです。
 「ファイバーシティ/東京2050」の「緑の網」(首都高速道路の廃止と緑地化)が、KK線で実現することになりそうですね。 

○KK線の再生・活用の目標
 東京の新たな価値や魅力を創出するため、KK線上部空間を歩行者中心の公共的空間として再生・活用
○目指すべき将来像
  将来像1 高架道路の形態をいかした広域的な歩行者系ネットワークの構築
  将来像2 連続する屋外空間をいかした大規模なみどりのネットワークの構築
  将来像3 既存ストックをいかした地域の価値や魅力の向上

https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/bunyabetsu/kotsu_butsuryu/kk_arikata.html
https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/bunyabetsu/kotsu_butsuryu/kk_arikata.html

「首都高物語―都市の道路に夢を託した技術者たち」に見る当時の状況

 さて、本題の「首都高速道路と景観」の話に戻りましょう。
 「首都高物語―都市の道路に夢を託した技術者たち」(2013 青草書房)を読むと、当時の状況が良くわかります。
 1959年(昭和34年)4月に首都高速道路公団法が可決、成立していますが、その翌月(1959年(昭和34年)5月)に、前回の東京オリンピック(1964(昭和39)年)の開催が決まったのですね。

 わずか5年程度で首都高羽田線や都心環状線をつくるには、河川を利用するしか方法が無く、また、(掘割構造にした他の区間と違って)日本橋付近については河川を廃止して掘割構造とすることを(治水上の問題から)河川管理者が認めなかったので、「日本橋の上に高架橋がかかる」ことは致し方ないことといえるでしょう。
  「首都高物語」でも 「日本橋川は、東京都から、洪水が発生した場合に相当な被害を受ける可能性がある洪水河川に指定されていた。」(P110)と書かれています。

「未来都市の象徴」としての首都高速道路

 加えて私が思い出すのはSF映画「惑星ソラリス」(アンドレイ・タルコフスキー監督)です未来都市の風景として延々と5分くらい東京の首都高速道路を走るシーンが使われているのですね。
 現在「日本橋の空を塞いだ無粋な建造物」として批判されている首都高速道路都心環状線は、当時の技術者の記念碑であり、世界的にも「未来都市の象徴」だったと言えます。

 また「NHKの人気番組『プロジェクトX』でも、日本橋周辺の首都高は、日本の技術者が連携し、世界の道路技術者をうならせた奇跡の道路だった。」(五十嵐太郎 東北大学大学院教授)とのことでした。

日本橋の完成供用、そして首都高速道路撤去論の経緯

 さきほど「歴史を振り返ればわかるとおり、日本橋ができた明治44年ころは、周辺は川越に残るような重厚な関東町家並ぶなかにところどころ西欧様式建築が交じる街並だったのだから、この日本橋自体が景観破壊の張本人であった。」(ファイバーシティ: 縮小の時代の都市像 )と引用しましたが、日本橋の完成当時(1911年)はどのように評価されていたのでしょうか?

 同年4月3日の開通に先立ち、4月1日から3日間、読売新聞は「日本橋開通記念号」を発刊していますが、多くの称賛の言葉が並んでいたかといえば、さにあらず、記念号とは思えないような辛口の批評が並んでいたようです。読売新聞ONLINEから引用します。

しかし、欧風の橋に和風の装飾という和洋折衷の姿は、専門家にはちぐはぐで中途半端に見えたようだ開通式で配られた読売新聞の「開通記念号」には、これが記念号かと疑うくらいの辛口の批評が並んでいる。

日本橋の真上に首都高…意外と知られてない真相 (読売新聞ONLINE)
https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/20180910-OYT8T50013/3/

 2例ほどご紹介しますと

 工学博士・塚本靖によれば、まず材料からして「今頃石でコツコツやるのは古い」。特に裏のほうまで花こう岩を使ったのは「馬鹿な話」で、それだけ金があるなら装飾に費やすべきだった。橋のアーチが2つというのも面白くない。川幅が短いのだから、1つにするか、3つにして両端2つを小さくしたほうが「美観上非常にいいし」、1つであれば船の通行に便利であった。そして、橋上に高架鉄道を通したパリや、船に合わせて開閉するロンドンのタワーブリッジを例に挙げ、機能的にも審美的にも日本橋はいまいちだと批判する。

日本橋の真上に首都高…意外と知られてない真相 (読売新聞ONLINE)
https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/20180910-OYT8T50013/3/

 工学士・田邊淳吉は、「欧州の橋と比べてもコムポヂションから見れば恥ずかしくない」としつつも、装飾や意匠を非難する。まずは「貧相な四角なおむすびのような飾り」だ。架け換え前の橋にあった擬宝珠の名残りだというが、「その不調和な形のマヅイ事はお話にならぬ位」であり、「日本橋そのものをスポイル」している。

日本橋の真上に首都高…意外と知られてない真相 (読売新聞ONLINE)
https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/20180910-OYT8T50013/3/

 こうして架け替えられた日本橋は関東大震災や戦災にも耐えたわけですが、1963年に首都高が日本橋の上空に建設されます。

 私は以前(平成初期)、某政令都市で自動車専用道路を担当していたことがあります。担当の事業は激しい反対運動がおきて、都市計画手続きや環境影響評価手続きでは、その都度、数十万通!!の意見書が出てくるような事業でした。
 これに対し、前回の東京オリンピック・パラリンピック(1964年)当時、日本橋付近の首都高建設について、住民などの大きな反対運動がおきていた様子はありません。
 (ただしその後、首都高中央環状線や東京外環自動車道では大きな反対運動があり、当時の美濃部都知事によって事業が凍結されました。)

 ただし、大きな反対運動は無かったとはいえ、後に日本橋上部首都高速道路の撤去運動の主体となる、「名橋「日本橋」保存会」が結成(1963年)されています。
 文化財としての日本橋の保存運動を続けてきた会であり「名橋「日本橋」保存会は日本橋と交差する高架高速道路を地下に移設する等の方法により、日本橋をよみがえらせるための活動を行っております。」( 名橋「日本橋」保存会 サイト)とのことです。
 同保存会は、2015年9月、33万名近くの署名と共に「日本橋地域の上空を覆う首都高速道路の撤去又は移設に関する請願書」を衆議院議長に提出しています。
 ただし、さらに十年前頃から、首都高速道路の老朽化への対応だけでなく、周辺の大規模開発との関連でも政治・行政・社会的な関心事になっていました。主な経緯を以下に示します。

  • 「東京都心における首都高速道路のあり方検討委員会」(2002年)
  • 「日本橋川に空を取り戻す会」提言書とりまとめ(2006年)
  • 「首都高速の再生に関する有識者会議」提言書とりまとめ(2012年)
  • 「首都高大規模更新事業の事業許可」(2014年)
  • 「日本橋周辺3地区を国家戦略特区の都市再生プロジェクトに追加」(2016年)
  • 「首都高日本橋地下化検討会」(2018年)

清渓川(チョンゲチョン)再生事業の影響

 また私見ですが、この時期、李明博・韓国ソウル市長(2002年~2007年:その後大統領に就任)の手で推進された「清渓川(チョンゲチョン)再生事業」が、2005年に完成しソウル市の名所となるとともに世界的な評価を得たことも良い意味で影響していると思います。

 汚水が流れ込みドブ川と化し、上部に覆蓋や幅50mの高速道路を架けられていた河川(清渓川:チョンゲチョン)について、ソウル市都心を貫通する延長約6kmにわたり、①高速道路を撤去し ②露店を立ち退かせ ③せせらぎや川辺を整備する などといった事業でした。
 露店の立ち退きには激しい抵抗がありましたし、清渓川の水質が悪いことから、せせらぎの水は多額の費用をかけて漢江の水を浄水しポンプアップして流すことになりました。

 また、高速道路(4車線、交通量約10万台/日)を廃止、並走する一般道6車線を4車線に縮小したことにより、周辺の道路に大きな負荷をかけることになりました。
 このため、再生事業本体に比べるとあまり知られていないことですが、ソウル市の路線バス事業者やバス路線を再編して公共交通利用促進を進めるなど都市交通の面で大変な苦労をしています。
 (都市交通は私の専門のひとつでしたので、むしろこちらの施策に注目していました。)

 当時、李明博・韓国ソウル市長が来日したことがあり、私も東京大学安田講堂で講演をお聞きしました。 清渓川再生など取り組んでいる事業やソウル市の将来計画などについて熱く語っておられたことを思い出します。

 日本においても、高速道路撤去による清渓川再生事業は高く評価され、その後の、首都高地下化構想に少なからぬ影響を与えたといえるでしょう。

変容する「景観への感性」の中で我々は何を考えるべきか

 このように日本橋と首都高速道路をとりまく景観論争、そして首都高地下化事業については様々な要因が影響を与えてきたように思います。
 中でも、景観の善悪を判断しているのは、そのときの(ある意味では一時的な)「時代における景観の感性」であって、「今後ともその感性が妥当であるという保証は全くない」ものだということを、この事例に限らず、我々は常に心に留めておく必要があります。

 この点については、「土木学会誌 Vol.101 No.10」(2016年10月)に、渡辺裕 東京大学大学院人文社会系研究科教授 が寄稿された、「変容する感性のなかで ~首都高速道路の景観をめぐる言説史~」の論述が素晴らしく、私はとても感銘を受けました。
 4ページほどの寄稿文なのですが、とても考えさせられる内容でしたので、次の記事でご紹介しつつ、考察したいと思います。

 「首都高速道路と日本橋の景観をめぐる言説史」をたどりつつ「景観への感性」を考える 【その2 後編】 に続く

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