先日(2021年5月22日)放映されたブラタモリは、千葉県館山市の特集でしたね。
お題は「房総リゾート・館山はどうできた?」でしたが、「鋸山から見える館山のモコモコした地形の秘密」「大地震の痕跡を海岸で発見!」「館山の「隆起」は日本トップクラス!その秘密はプレートにあり!?」などもテーマでした。
番組の中では、海岸の波に削られながらフィリピン海プレートに押されて館山付近が隆起し、段丘状の地形が形成されていることを検証していました。
その中で、「段丘の最上部が、縄文時代・6000年前の海岸であり」「その後の隆起によって(段丘の最上部まで)上昇した」と説明していました。
私がちょっと違和感を感じたのは、縄文時代から現在まで海水面が同じ高さであることを前提とした説明になっていた点です。話を分かりやすくするために説明を省いたのかもしれませんが、この1万年ほどの間でも、海水面は大きく変動しており「縄文海進」「縄文海退」と呼ばれているのです。
縄文海進
まず縄文海進ですが、「縄文時代前期(約6,000年前)頃は地球の気候が最も暖かかった時期で、現在より平均で約2度ほど高い気温でした。そのため、南極や氷河期に形成されていた氷河が溶け出して、海面の高さも現在よりも4~6mほど高くなっていました。」(横浜市歴史学物館)のことです。海が内陸部に進んできたので「縄文海進」と言っています。
縄文時代の海水面の変動
「都市計画 324号」(日本都市計画学会 2017年1月15日発行)の「東京湾とそれを取り巻く自然環境史と人の活動史」(辻誠一郎東京大学教授)には、縄文時代の海水面の変動が論述されています。
同論文から縄文早期~後期における東京湾の図を掲載しておきます。
なお、図中引用元の「樋口2001」とは、樋口岳二著「貝塚の時代、縄文の漁労文化」(2001年発行)のことです。
縄文「海進」の反対に退くことは「海退」と言いますが、図3左でわかるように縄文早期(約1万~6千年前)には海が後退し、東京湾は「湾」というより大河のような状況でしたし、図3右の縄文海進の後、図4の縄文中・後期まで海退がおきています。
この間、御覧のように房総半島の先端、館山付近の地形も大きく変容しています。
もちろん、地震による急激な隆起が館山の段丘形成の主要因であり、海進・海退は主要因ではないのかもしれませんが……「『海水面の大きな変動』を説明しない」ことに感じた私の違和感を分かっていただけますでしょうか?
ところで
どうしてこのような縄文海進が起きたのでしょうか?
現在より平均で約2度ほど高い気温だったなら……
当時の二酸化炭素濃度はどの程度だったのでしょう? 不思議ですよね。
以前から疑問に思っているのですが、地球温暖化の研究者が縄文海進を説明した論文は見つかっていません。専門分野が違う、ということなのでしょうか?
<参考>
地質等も含めて縄文海進等を詳しく知りたい方には、こちらをご紹介します。
「アーバンクボタ」 NO21 特集「最終間氷期以降の関東平野」
https://www.kubota.co.jp/siryou/pr/urban/pdf/21/index.html
古代における「千葉県は島」説を考える
先ほどご紹介した論文「東京湾とそれを取り巻く自然環境史と人の活動史」(辻誠一郎東京大学教授)には、縄文時代早期から縄文前期に変わるころ(現在から約6千年前)の縄文海進最盛期の東京湾の図も掲載されています。
なお図中引用元の「遠藤2015」とは、遠藤邦彦著「日本の沖積層」(2015年発行)のことです。
これによれば、海進の最盛期である「縄文時代早期から縄文前期に変わるころ(現在から約6千年前)」に、「千葉県は野田市あたりで、辛うじて本州と繋がっている」ようです。
ただし、同論文によれば「縄文時代早期の現在から約8千年前には群馬県南東端の板倉町近くまで海進が及んでいたことが明らかになった」そうですので、もしかすると一時的には(とはいっても約数百年間~千年間もですが)まさに「島」だったかもしれませんね。
なお、この図では千葉県の北部に「巨大な霞ヶ浦」のような内海がありますが、その後縮小したものの、弥生時代から中世まで「香取海(かとりのうみ)」と呼ばれる内海がありました。そのほとりに香取神社があったようです。
香取海は大和朝廷が東国を支配する上で重要な役割があったと考えられ、日本書紀や常陸国風土記には、日本建命(やまとたけるのみこと)が東征の際に香取海を渡ったと思われる記述があるそうです。
現代における「千葉県は島」説を考える
昨年(2020年)、「千葉県は本州と繋がっていない“島”である」説がTwitterでバズっていました。TV番組「林先生の初耳学」でも、「果たして千葉県は“島”なのか…!?」を検証していたらしいです。
リポーターと専門家が、東京都(葛西)と千葉県(浦安)の境である旧江戸川の河口からスタートし、江戸川と利根川との合流地点を経て、茨城県と千葉県の境である利根川の河口(太平洋:銚子付近)までボートで回る……という企画だったようですね。
結果として、千葉県は東京湾と太平洋に挟まれ、都県境・県境は全て川なので「千葉県は本当に本州とは繋がっていない」ことがわかったようです。
ただし番組では、「島は『自然の海や川、湖で囲まれている場所』とされていますが、江戸川・利根川とも一部、自然の川でない(人工的に作られた水路である)ため、『学術的には島ではない』という結論になった」とのことです。
じゃあ千葉県は、いつ本州と分離したの?
そうなると、「島かどうかはともかくとして、千葉県はいつ本州と分離したの?」と思いませんか?
こうなった原因は、1590年に江戸に入った徳川家康が、江戸のまちづくりを進めるにあたり、利水と治水のために、東京湾(江戸湾)に流れ込んでいた利根川を太平洋に流すという大工事「利根川東遷」を行ったため、と考えられます。
「利根川東遷」は家康の命によって1594年に始められ、完成は60年後!の1654年とのことです。
完成後、利根川は渡良瀬川、鬼怒川などの水を集めて銚子で太平洋に注ぐようになったため、江戸が浸水することは少なくなり、関東平野全体としても水田が拓かれ穀倉地帯として発展していきました。
下図を見ると、辛うじて本州とつながっていた千葉県が、野田市付近で分離したことがわかります。
<国土交通省関東地方整備局江戸川河川事務所>
https://www.ktr.mlit.go.jp/edogawa/edogawa00222.html
まとめ
以上をまとめると、いささか乱暴ですが
・縄文時代には一時、千葉県は島だった…かも
・その後7千年?ぶりに千葉県が本州と分離したのは、徳川家康による「利根川東遷」が原因!
(17世紀半ばの出来事)
と言えそうです。
「林先生の初耳学」ではどのように解説していたのでしょうか?
私は見ていないのでわかりませんが、「徳川家康が犯人!」ということにしておきましょう。
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